私が、地元で工務店を営むわけ[北島健晴物語]

 

トントントン・・・

 

実家を建ててくれた工務店のドアを叩いたのは、
高校の卒業式を終えたばかりのまだ肌寒い頃でした。

 

「こっ、こんにちは…」

おどおどしながら、ドキドキしながら叩いたドア。
思えばそれが、私の大工人生の幕開けでした。

 

---改めまして、こんにちは。神明工務店 代表の北島健晴です。

 

冒頭より失礼いたしました。
このページでは、私の自己紹介も兼ねながら、
私、そして神明工務店の家づくりのルーツをお伝えできればと思います。

私のこれまでの半生をお話しすることは、
少し気恥ずかしい気持ちですが、
ここまでご覧いただいた神明工務店に興味を持っていただいたお客さまに、
私の家づくりの想い、そしてこれまでの人生の葛藤や成果をお伝えすることで、
これからの皆さまに良い家づくりの【考え方】ヒントを御提供できればと思います。

 

藤沢で生まれ、藤沢で育った私、北島です。

 

私はこの街、藤沢市に生まれ、地域の方たちに育てていただきました。
歳も60を数えた今、あらためて振り返ってみると、人に恵まれた人生だったなぁであると感じてます。

これまでの人生で、多くの方とふれ合うことで、人として多くのことを学びました。
人は人から学びを受けます。
学んできた中で大切にしていることは、人を大事にすること。
人から人へ、自分たちの世代から、次の世代の方へ。

 

これまでの人生の学びを経て、ひとつの想いに辿り着きました。

 

「藤沢地域の方を世代を越えて、ずっと大切にする工務店でありたい」

 

そう思うようになったきっかけは、今から40年以上前、
高校の卒業式を終えたばかりの頃のことでした。

 

 

大工人生の幕開けは、実家を建ててくれた親方の元で

 

「こ、こんにちは…」

 

47年前に実家を建ててくれた工務店のドアを叩いたのは、
卒業式を終えたばかりの3月10日。まだ肌寒い時期でした。

私は、高校を卒業後、大工の修行のために親方の元に弟子入りをします。

(高校を卒業したら、大工になるために修行に出るんだ)

そう心に決めていました。
修行先は、実家を建ててくれた親方の元へ。
私が大工ってカッコイイ仕事だと思わせてくれた憧れの人の元で修行ができると、
胸踊らせてその日を迎えました。

いざ、ドアの前に立った時は緊張しましたが、
親方は快く中に通してくれ、私の大工人生の幕があがりました。

 

住み込みで給料はなく、お小遣いは月1000円。
休みも月2日くらいしかありませんでしたが、
早く一人前の大工になることを目標にしていた私には十分でした。

「よし、やるぞ、自分の実家を建ててくれたあの時のように、
 家族が笑顔になる家をつくる大工になるんだ!」

 

 

心踊るスタートを切った私は、
数日後にはナップザック1つに衣類を詰め込んで自転車に乗り、
藤沢の街を駆け抜けていました。

緩やかに吹く追い風が、高ぶる気持ちを後押ししてくれるようでした。

 

 

俺って才能ないのかな・・・

 

 

修行中は、住み込みなこともあり、
生活に不自由することはありませんでしたが、
決して楽と言えるものではありませんでした。

今は、ホームページにも私の笑顔の写真を載せてますが(本当は恥ずかしいんですが)、
残念ながら、当時は今のような笑顔をした記憶がありません(笑)

入門してまもなく、世間知らずの私に壁が立ちはだかりました。

大工の基本、カンナの刃研ぎです。
毎日仕事が終わると大工道具を磨きます。

中でもカンナは大工の魂とも言える道具。
その研ぎ方を兄弟子に見てもらいながら、指導を受けるのです。

「なんだ、このカンナは、全然ダメだな」

「昨夜、研いできたんですけど!」

今、思えば当たり前も当たり前。
未熟者が一人前になるために必ず通る道です。

しかし…

「健晴!! なんだこりゃ! 仕事のまね事なんかしてないで、こっち片付けろ!」
「そんなんで仕事を覚えようなんて100年早ぇ!」

毎日が練習の日々。

研いだら、何度も先輩たちに見てもらう。
見せると必ず「ダメだ!」と金槌で「パンッ」とされる。

その繰り返しです。

親方や兄弟子の怒鳴り声がすると、身体が「ビッ」とします。
良くも悪くもこの感覚が身についてしまいました。

(今でも、その声を思い出すと…苦笑)

そんな毎日を過ごすうちに思うようになりました。

「俺って才能ないのかな・・・」

 

 

絶望のまっただ中に訪れたチャンス

 

 

練習はしているけど、一体、いつになったらできるようになるのだろうか。

「辞めたい」という逃げの気持ちと、
「でも、やりたくてやったこの大工の世界だ、頑張れなくてどうする!」という強い気持ちが交互に現れる、
とても不安定な時期。

「できる限りを尽くすしかない」

「とにかく職人の中で、いつか絶対に上になってやるぞ」

そんな気持ちを胸に仕事に取り組み、年月は過ぎていきました。

ある日、親方からあることを言い渡されました。

「おいっ!」

(ビッ!)

いつもと同じように背筋が凍りましたが、
その次の言葉は予想もしなかった一言でした。

「お前、お茶室手伝ってみるか?」

(えっ、お茶室ですか?)

戸惑いました。

お茶室と言えば、
大きいお屋敷の中の一室で、和風住宅では一番の見せ所と行っても過言ではない部屋です。
それを自分にも手伝わせてもらえるなんて。

「はい」

私はとにかく夢中でその仕事に没頭!

そして、仕上がった茶室を見て親方が一言…

「お~! まぁまぁい~じゃねぇか!」

普段おっかない親方のその一言。
本音を言うと、仕上がったことよりも、その声に安堵しました。

後にその家は、茅ヶ崎の商工会議所の第1回建築優秀賞をいただくこととなりました。
「これなら自分でやっていけるぞ!」この賞をいただいたことで、今後に向けての自信になりました。

 

 

独立、それは人生最大の決断でした

 

 

自信を持った私は、迷っていました。
仕事に邁進し、気づけば、30歳。

このままでいくのか、独立するのか…

「絶対に、俺が一番になってやる。
 俺がいなくては、親方のところが潰れていくかもしれないくらいまでやってやる。

 ならば、

 俺なしでは仕事が成り立たないくらいまで成長するか、
 独立をしてやっていくか、どっちだ!」

お世話になった親方を支えていきたいという想いもありましたが、
私の最終決断は、独立という道でした。

「建築北島」

これは、私が独立をした時の屋号です。
始めのうちは運動会で使うようなテントを張ってその下で作業をする日々。
最初は、丸のこ、ドリル、カンナ、電気カンナと手道具のみでのスタートでしたが、
寝る間も惜しいほど、仕事が面白くて仕方がありませんでした。

「この人のためには、こういう家がいいだろうな」

考えるだけで楽しくなってきます。
朝から晩までお客さまの家を考え、頑張って建てた家を見たお客さまが喜ぶ姿は、
心のそこから嬉しく感じました。

 

順調なスタートから一転、仕事がない!

 

 

人生の節目としていいスタートがきれたと思いました。
徐々に仕事が増え、社員大工を雇うまでになりました。

しかし

順調な時は、長くは続きませんでした。

始めの勢いは徐々に弱くなり、仕事が少なくなってきてしまったのです。
スタッフの数は増えていくも、仕事は徐々に減っていく。

「どうしよう・・・」

何とかしなければという焦りばかりが募ります。

しかし、仕事が減る中でも私にはあるこだわりがありました。
それは、今も神明工務店の伝統として残る「社員大工」の存在です。

周りの工務店は、自分たちの都合によって大工を雇う“手間請け”というカタチでの雇用も多かったのですが、
私は「神明工務店の“常用大工”として、魂を込めた仕事をして欲しい」という想いの元、
大工は自社で雇うことにこだわりました。

そこには、仕事の質ともうひとつ、ある想いがありました。

「若い大工を育てていきたい」

現在は本当に技術のある大工が、どんどん減ってきていると言われています。
私も、昔の厳しい大工の世界を過ごしてきたものとして、そのように思います。

昔と今の大工の技術力の差は確かにある。
だからこそ、なんとか若い技術のある大工を育てたかったのです。

技術の高い大工の工事は何より、お客さまのためになります。
技術力のある若い大工が育てば、神明工務店のお客さまをいつまでも大切に見守っていくことができます。

先輩が建てた家を、先輩が引退しても、次の世代の大工が引き継いでいく。
家は10年、20年、100年経って家が壊れてきたら、修復して次世代に受け継いでいく。

私たちには、お客さまをずっと見守る責任があります。
そんな思いで毎日汗を流していました。

当時を思い出すと、胸がいっぱいになります。
経営が困難であるとはいえ、スタッフのみんなが頑張ってくれていました。

魂のこもった大工工事をしてくれていた。

だからこそ、経営が厳しいことは、本当に辛かった。
とっておいたお金を切り崩して、なんとか会社を保っていました。

 

 

父親に教えてもらった原点、人の気持ちを大切にする、神明のリフォーム

 

 

なんとか・・・
なんとか・・・

頑張れば頑張るほど、嫌な情報が入ってきました。
昔からの知り合い棟梁が、仕事を廃業するということが、相次いだのです。

何かしないといけない

親方としてやっているだけでは潰れてしまう。
もちろん、一人でやっていく分には、その道のほうが楽かもしれませんが、
若い社員大工を育てる、お客さまをずっと見守り続ける工務店をつくる!と
心に決めていた私は、勝負に出ました。

お客さまをいつまでも見守っていくためには、
家業ではなく、会社組織にしていかなければならないと感じ、
昭和60年、現在の有限会社神明工務店を設立し、
組織として仕事をしていく決断をしたのです。

 

「おやじ、頼む」

有限会社神明工務店の設立とともに、事務所を設けることにしました。
でも当時の経営はギリギリいっぱい。
私は現会長である父親に実家をリフォームして事務所を作らせてもらうように、頼み込みました。

「この家を壊して、スタッフが集まる事務所にしたいんだ!」

「じゃ、しょうがないな。その代わり頑張れ。でもな・・・」

父親は戦争を経験し、実際に戦地で戦ってきた人間です。
実家は、そんな父親が戦争から帰国し、同僚の家に住み込みながら、必死に稼いで建てた家です。

建てた家に対する想いは、並大抵ではありません。
父親の故郷である静岡から持ってきた材料を使って建てた家でもあります。

そんな家をリフォームして、事務所にする。

私の気持ちに対して、答えてあげたい気持ちがあっても、
そう簡単に自宅に対する想いを捨てることはできないことは、私にもよくわかりました。

 

でもな・・・

 

その言葉に詰まった想いをカタチにするリフォームをするんだ。

決意を持って実家をリフォームさせていただくことにしました。

想いが詰まった家の原型を残しつつ、新しい事務所をつくる。

親が主に使っていた、部屋の柱などを、綺麗に外して、
3階にもとのままの姿で、材料もそのまま使って再現することにしました。
私は親父をビックリさせようと、そんな考えがあることは言わずにいました。

 

「お~、い~じゃないか!」

昔の材料もそのまま、
見た目もそのままの自分の部屋が3階に作られ、新しい事務所が完成すると思っていなかった父親は、
ビックリするとともに、感動してくれました。

親方にかけられた言葉も嬉しかったですが、
父親のこの言葉は、心に染みました。

私はこの時、自分がお客さまに対して、
どんな家づくりをすればいいのか気づきました。

 

まだ始まったばかり、課題も山積みでしたが、
私はその言葉に「やっていける」と思うことができたのです。

 

「家を建てる人の気持ちを、この後もずっと大切にする家づくりをしていこう」
「そんな想い入れがある家は、代々受け継がれていくべきだ」

お客さまの表情を、あの嬉しそうな父親のように変えるリフォームをする。

これが、今自分がやるべき使命だ、そう感じたのです。

不思議なもので、そう決意してから、仕事の依頼が徐々に増えて来て、
まだまだ小さな会社ではありますが、
おかげさまで社員4名、社員大工4名に恵まれて、仕事をするまでになりました。

もちろん、このことは何より神明工務店を信頼し、
仕事を任せていただいたお客さまのおかげです。

私、北島健晴、そして私たち神明工務店は、
使命感を持って、これからもご縁ある藤沢地域の方に貢献をしていきたいと思います。

まずは、何でもご相談ください。
工事の大小は関係ありません。
人の思い入れがあるものは、ずっと大切にしていきたいと考えているからです。

これからも「困った時の神明さん」として、藤沢地域の方を見守り続けていきたいと思います。

 


IMG_2856【所属・役職】 代表取締役社長
【名前】 北島 健晴 (きたじま たけはる)
【誕生日】 1950年12月25日
【星座】 やぎ座
【血液型】 O型
【出身】 神奈川件藤沢市
【創業年月】 1985年4月1日
【資格・特技】 二級建築士
【休日の過ごし方】
よく仲間とゴルフに行くことが多くあります。普段は地域のお祭りの時などで取ってきた、金魚の世話をして、心を癒やしています(笑)お酒も嗜む程度には飲みます。オススメは日本酒の「〆張」です。

 

 


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