~戦争体験から学んだ、地元で暮らす幸せ~

 

神明工務店 会長 北島令司の物語


~戦争体験から学んだ、地元で暮らす幸せ~

 

 

 

こんにちは、神明工務店 会長の北島令司です。

 

2昭和18年、私は兵隊として戦場に出ました。
戦争では、一言で言いまとめることができないような、
様々なことを体験してきました。

私は、2年前から、その【戦争体験】について、
時折り依頼を受けて、
講演などをさせていただいております。

主催者の方からは「その体験をこれからの世代にも伝えたい」とお話いただくのですが、戦争体験をお話するというのは、実は、気のすすまない思いでもあります。

 

 

話すことで、自分がみじめになります。
勝ち戦ならともかく、明らかに負け戦。
負け戦で戦争の話なんてしたくありません。
私の小学校の同期も先輩も後輩も何人も死んでいます。
空中戦で共に戦った同士のことを思うと…。

 

 

しかし、話を聞いた方から「良い話を聞かせていただいた」「これからの生き方を考えさせられる機会になりました」という声をいただき、お役に立てていただいていることとも思いますので、これは、生き残らせていただいた私の「使命」だと自分に言い聞かせて、続けさせていただいております。

 

 

ここでは、その断片的な一部分ではございますが、お伝えさせていただきます。
これから新しい暮らしを考える上でのヒントになれば幸いです。

 

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「お袋・・俺、行くよ・・・」

 

 

そう言って、私が向かっていった先は【戦地】でした。
眩しい太陽の日差しを浴びながら、両側には「バンザーイ」と両手を上げる近所の人たち。
人から想ってもらうことの、大切さを肌身で感じながら、実家に背を向け、戦地に向かって歩き出しました。


私は、戦争へ行くことになったのです。3

 

 

私は、『はやぶさ』という戦闘機に乗って戦場へ出ました。
最後には、特別攻撃隊(特攻隊)の護衛と誘導をする役目です。

護衛と誘導と言えば聞こえはいいかもしれませんが、
実際は、特攻隊の彼らが敵艦に突っ込むまでを見届ける役目でした・・・

 

 

 

 

 

 

生きるために目指したパイロット

 

 

私は、静岡県の山の中、
今は温泉街となった「寸又峡」という地で生を受けました。
南アルプスの麓で見渡すかぎり、山ばかりの地域です。

 

 

9人兄弟で、女が5人、男が4人。
実家は、お茶やシイタケの栽培をしていました。
長男以外は、「女はみんな嫁に行け」、
「男は外へ出ろ」という時代でした。

 

 

私は四男だったので、山の中なので仕事はなく、
外に行かなければいけなかったのです。

 

 

私は小学校を経て、
今で言う郵政省の郵便局員を養成する学校、
「逓信(ていしん)講習所」というところに入所しました。

そこならば、着るものもくれる、宿舎に入れば飯も食える、
ほんの少しですが給料もくれる。

それだけの気持ちでしたが、無事講習所を出て、
郵便局員となり、配属先になったのが藤沢でした。

 

 

16歳の時から2年間ほど勤め、思うことがありました。

「このままの生活をしているだけでは、将来が不安だ」

そんな時に、ある広告が目に飛び込んできました。

「民間パイロット養成」

郵政省に航空局というのがあるんですが、
そこで、無料でパイロットの資格を得る学校があるという広告が出ていたんです。

そこでは、給料も出る、衣服もくれる、宿舎も用意してくれる。
こんないい条件はないでしょう。しかも、パイロットになった暁には、高額の給料がもらえるわけですから。

そこに出願したら見事に受かったのです。

 

 

厳しかった、パイロット養成学校

 

 

入学してからは、厳しい洗礼を受けることになりました。
些細なヘマでもビンタをくらう毎日。
相当殴られていました。

でも、そこには意味がありました。
パイロットになったら、ちょっとヘマをしただけで死に直結しますからね。
ですから、ものすごく厳しかったです。

今日の日本では考えられないような、厳しい修行の日々。

「卒業したら日本航空か満州航空か、どちらかのパイロットになるだろう」
と、パイロットになる夢を仲間と語り合うことが、自分の支えとなっていました。

そして、いよいよ卒業が近づいてきました・・・

 

 

おまえら、全員軍隊に入れ

 

 

航空局を卒業する前日、私たちにある達しがありました。

 

 

「お前ら全員軍隊に入れ」

 

 

一部の者はそのまま学校に残って民間の航空機のパイロットになれたんですが、
それ以外は全員軍隊に入って、
否応なしに水戸の陸軍飛行学校で実務訓練を受けることになりました。

約半年間の訓練を積むと、
次の段階は【戦闘機、爆撃機、輸送機のどれに乗るか】です。

パイロットとしての適性、戦闘機、爆撃機、輸送機への適性検査がありました。

 

 

条件があるんです。
例えば、戦闘機に乗ったら100%死ぬことがわかっているので、
家を継がなくてはいけない長男はダメとか。

そんな条件の中、私は四男。
民間のパイロットを夢見た令司少年は、
幸か不幸か、適性検査をくぐり抜け、
戦闘機に乗り、戦場へ行くことになりました。

その後、戦争に行くための、
3ヶ月間の空中戦闘訓練の毎日がはじまりました。

 

 

お袋、今までありがとう・・・

 

 

そして、いよいよ戦場へ出る日がやってきました。

これから戦争に行くぞという時、
最後の別れをするために、一度全員自分の家へ戻されました。

実家へ帰ると、親父とお袋と一緒に、近所に挨拶をして廻りました。
昔は、戦争に行くとなると、のぼり旗を飾って、「バンザーイ、バンザーイ」と手を上げてくれます。

そういうものでした。

でも親からすれば・・・

 

 

―――息子が「死にに行く」わけです。

 

 

お袋は顔をしわくしゃにさせて、
「今日はオレのところで寝ろよ・・・」
そうつぶやきました。

 

 

その日はお袋と親父の間で寝ました。
なかなか寝れずにいました。

明日の朝になれば、私は戦争に行きます。
まず、生きて帰ってくることはないでしょう。

日の丸を背負う者として、任務を全うしたい。
でも、生んでくれた親には、もう逢えません。

 

 

ごめん・・・ 親父・・・ お袋・・・

 

 

そんなことを考えていると、
手のひらに何かが載っていることに気づきました。

(親父・・・?)

お袋の手でした。

お袋も一睡もしていなかったのでしょう。
まるで、生きていることを確かめるように、
お互いに手を重ね、温もりを感じていました。

 

 

翌朝、眠い目をこすり、食事をしました。
9時頃ウチを出ると、近所の人が、通りに出て、
みんなが「バンザーイバンザーイ」といって送ってくれました。

 

でも、お袋の姿がありませんでした…

 

「どこにいった?」

 

「階段のところにいるって」

 

向かうと、階段の下でぽつんと座っているお袋がいました。

 

だまって座っていました。

 

お袋は、私のことを19年間育ててくれました。

でも行ってきます。

若き日の私たちは「一刻も早く、戦争に行きたかった」。

そういう教育を受けていたんですね。

 

 

「行くよ・・・」

 

 


出発には、なんとも中途半端な一言でした。
普通は「行って立派に戦ってきます」と言うんです。

「また戻ってきます」なんて女々しいことは、
その当時は絶対に言ってはいけないこと。

ですが、いろんな気持ちが重なって、
「行くよ・・・」という言葉を私は残しました。

 

 

「帰ってこいよ・・」

 

 

お袋はそう言ってくれました。
あの言葉、声は一生忘れられません。
その言葉と一緒にお袋は、お守り袋をくれました。

私はそのまま出掛けました。

そのお守りは、飛行中も、今でも大切に持っています。

 

 

同期の死

 

 

私たちは、色々な戦地へ赴きました。
戦争が終盤に差し掛り、
結果的に最後となった戦地はインドネシア。
ジャワ島経由で行き着くボルネオの北部でした。

 

 

戦いははじまりました。

B―24を撃墜させるために、私は飛び立ちました。

そして、私と仲間たちは、いくらかの戦闘機を撃墜させました。

 

 

その時に一緒に飛び立った同期の仲間がいました。

その仲間の飛行機が着陸する寸前、
無防備になっているところを、敵のP38戦闘機に狙われ、
私の目の前で落とされてしまいました。

 

 

仲間は墜落する飛行機と共に、この世を去りました。

 

 

私は、護衛できませんでした。
仲間を殺してしまいました。

 

 

同期の実家へ

 

 

戦争が終わり、幸か不幸か私は生き残りました。
いくらか経った後、家内を連れて、戦死した同期の仲間の実家を訪ね、九州へ行きました。

 

 

「失礼します、北島です!」

 

 

同期の両親も名簿を持っていたので、
私のことがわかったようで中に入れてくれました。

 

 

そして、玄関を上がろうとしたとたきでした。

 

 

開口一番、

 

 

「よく来てくれた・・・
 私の一番大事な息子を殺しておいて、
 お前さんが、こうしてのこのこと帰ってきて、
 何しに来たんだ! 言ってみろ!

 

 

・・・返事のしようがありません。

 

 

私の目の前で彼が落ちたのも見ています。

私は「仏さまにはお線香をあげさせてください」
と言うのが精一杯でした。

 

 

冒頭で、「気のすすまない思い」とお話させていただきましたが、
特にこの話は、話すたびに胸が強烈に痛くなる出来事なのです。

 

 

~人として生きることを全うしたい~ 藤沢に戻った私。

 

 

その後は新しい仕事につくために、藤沢に戻ってきました。
実家は田舎なので、仕事がありません。
他に行くところのない私にとっては、藤沢しかありませんでした。

 

 

ある大手の会社に面接に行くと、
その面接担当が、たまたま海軍の方で、
「これからは陸軍と海軍で力を合せましょうよ!」
「お、いいヤツが来た」
と言ってくださり、その場で採用してもらいました。

 

 

「じゃ、明日から来いよ」

 

 

布団も何もない私に、生活をするための手配までしていただき、
そこで仕事をすることになりました。

「これからの人生は、生きることを全うしたい」

私は、そう思いました。

 

 

将来は結婚をしなければならない。
すると、暮らすための家がなくてはならない。
そのためには、土地がいる、お金がいる。

 

 

私は猛烈に働きました。
残業は毎月100時間を超えていたと思います。
休日も1ヶ月に1回あるかどうか。

 

 

そして10年後、
この地、藤沢市神明町に念願マイホームを建築することができました。

 

 

サラリーマン人生を全うし、
今は、神明工務店を立ち上げた息子(代表:北島健晴)と一緒に、
藤沢地域のために、何か役立てることはないかと、活動をしています。

 

 

地域への貢献は、私にできることは何か・・・と考え行き着いた答えです。

50歳の半ばごろから、改めて当時のことについて思うようになってきました。

「あいつらが生きていたら、もっと立派な国になっていただろうな」
戦死した仲間のことを思い出しました。

「息子を殺しておいて、なんでお前が生きているんだ」 
仲間の親のその言葉が頭から離れませんでした。

 

 

「俺ができることはなんだろう・・・」

 

 

 

藤沢地域の皆さまの人助けをしていきたい

 

福祉をやろう。

 

 

私のできることは、福祉活動ではないか、
そう考え、行動に出ることにしました。

民生委員として地域を見守る。

例えば、一人暮らしや寝たきりの老人のお宅に月に2回ほど訪問して、
「大丈夫ですか?」と寄り添ってお話をしたり、
人生経験豊富な、地域に住まう人たちの身近な味方となるべく、
福祉活動に力を入れてきました。

 

 

やがて町内会長、社会福祉協議会の会長となり、
特に障害者と、高齢者のサポートを重点的に実施し、
藤沢市の福祉の副会長を任命され、
市の福祉計画をどのようにしていくのかを考え、今後6年間の計画書を作成した一員でした。

また地区の老人会を運営し、高齢者の方のコミュニティーをつくったり、戦争を経験した、数少ない生存者のひとりとして、その体験を伝える責任と使命感をもって、講演をさせていただいたりしています。

どこまでお役に立てたのかは、図りかねるところですが、
できる限りのことをやってきたつもりです。

 

 

 

 

終わりに

 

私は、このような活動を通じて、
お世話になった藤沢の地域への恩返しとして人の助けとなりたいと思っています。

藤沢地域の皆さまを大切にしていく想いをもって、
これからも、出来るかぎり社会福祉活動に取り組んでいきます。

元気いっぱいに頑張っていきますので、
皆さまこれからも、よろしくお願いいたします。

 

 

有限会社神明工務店
代表取締役会長
北島 令司

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【所属・役職】 代表取締役会長
【名前】 北島 令司 (きたじま れいじ)
【誕生日】 1923年2月4日
【星座】 みずがめ座
【血液型】 B型
【出身】 静岡県榛原郡川根本町
【入社年月】 設立後、10年経過後。
【休日の過ごし方】
趣味は植木の手入れ。趣味ではありませんが、社会福祉関係の仕事もこなしております。また、童謡サークルを作って、施設に行って、入所者の皆さんと大きな声で童謡を唄っております。

 

 

 

 

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